その冬、街に雪が降った。
何年も暖冬が続いて、風は冷たくても雪は見えない年が続いていたのだが、その年の冬には、街は白一色に染まり、辺りを白い粉のような雪が舞い降りていた。
そう、草薙真人と城崎唯が十六歳である冬に。
「けどよー真人、これって実際にはドロ水だったりすんだよな。空気中の埃とか吸い込んでてさ」
ムードも何もあったものではないコメントを、白い吐息と共に吐き出したのは唯である。
それに対して、真人は穏やかに微笑しながら答える。やはり白い息を吐きながら。
「でも、こうやって見るととても綺麗だよね」
そう言って真人は、手袋に付着する細かな雪を見つめる。彼の着るコートも、雪がたくさんついている。
唯は煩わしげに頭をぶるぶる振って、髪についた雪を払い落とした。
「見た目は綺麗でも内実はドロドロなんだな。女とかそうだよな。顔とか衣装は華麗に装ってても、中身は超不純な暗黒の溶解物でよ」
そんなことをケロッとした顔で言うのが、城崎唯という少女なのだった。
「女とかっていうか、みんなそうなんじゃないかな。誰だって、わがままなところとか嫌なところとか、持ってるのが当たり前だと思うし。僕だって、顔は微笑（わら）っていても、きっと心の中でひどいことを考えているんだと思うよ」
「ウソつけ」
そんな風に喋り合いながら、雪の街を歩いていく。
冷たい風が、さらに雪を運んでくる。ショーウインドーはクリスマスの装いで、道行く人々は雪をまとってせわしげに歩いて、白いガードレールもその隣に駐車している白い乗用車も、さらに白く染まっていっていた。
白い街に浮き上がるのは街路樹の深緑、背広の灰色、信号の黄色、タイルのクリーム色、道ゆく車は色とりどりだ。
その中で特に目を引くのは、やはりこの季節以外では見られない、金色と赤色だろう。
金色はクリスマスツリーに付いているベルの色、赤色はサンタクロースのプレゼントの色だ。
ふっくらとしたデザインのケーキの入ったガラスケースの隣で人々に呼びかけているサンタ姿の女の子は、ただのアルバイトでそうやっているのかも知れないが、それでもその姿には若い女性の瑞々しさと子供たちの年に一度のアイドルの面影とがあった。
「外面と内実との違いと言えばよ、あのサンタクロースって、一般に知られてる白髭のじいさんとは本当は違う顔だそうだぜ」
「ふうん？」
真人は唯の方を向いた。
唯の口から、また白い霧が吹き出した。
「あたしもそんなに詳しくは知らねーんだけどな。コンピュータで再現したらそうだったって聞いたことがあるんだ。誰から聞いたか忘れたけど。ネットだったかな。まあどうでもいいや」
「サンタさんて、誰がモデルなんだっけ？」
「聖ニコラスだろ、確か。ギリシャの司祭だか司教だかだろ。やっぱり貧しい子供にプレゼントを配ったりして、聖人として讃えられてたそうだぜ。やってることだけ見てると、時代劇の義賊とちょっと似てるよな。屋根に登って、小判をばーってばら撒いてさ」
何かが激しくずれたコメントを述べていると、唯は足元の氷に滑りそうになった。
「うお！危ねーっ！てめえ、こら、あたしを殺す気か！」
喚き散らす唯を、通りがかった大学生ぐらいのカップルが笑いながら見ていた。それに気付いた唯が思いきりそっちを睨みつけるのを、真人が「まあまあ」となだめている。
「怪我はなかったからいいじゃない」
「うっせー。畜生、あたしが何したっつーんだよ。サンタを石川五右衛門と一緒にしたのがそんなに悪いかよ。言論の自由が守られてねーぞコラ」
唯はまだ悪態をついている。真人は、つい吹き出しそうになるのを堪えながら口を開いた。
「でもギリシャって、けっこうサンタのイメージと違うよね。彫像とか見ると、みんな素肌に布を巻いただけみたいな感じでしょ。実際に、けっこう南の方だと思ったし。イタリアの近くだったっけ？」
「ギリシャと聞くと白い砂浜とそこに寝そべる水着姿の白人の男と女が思い浮かんで仕方ないわけなんだが」
「だよね。そこであの格好してたら、きっとすごく暑いよね。トナカイさんとか、日射病で倒れちゃうかも」
「うーむ、ノルウェーとかフィンランドの動物だからな…。つーか本当にトナカイのソリに乗って赤い服着てたわけじゃないんじゃねーのか？司教なら、普通の司教の服着てるだろ。トナカイとか赤い服とか、そういうのは誰かが後で考えたもんなんじゃねーの？」
「そうかもね。でも、やっぱりサンタさんといったらあの赤い服とトナカイだよね」
「まあな」
呟くと、唯は空を見上げた。白に近い灰色の雲が覆い、星の数ほどの雪が舞う寒空だった。
まだ、赤い服の聖者が街を訪れるには早いだろうか。シャン、シャン、シャンという鈴の音は、聞こえてこない。聞こえるはずもないその音に耳をかたむけようとして軽く首を傾げた唯を、真人がしげしげと眺めている。ばかばかしい、と眉をしかめて首を振り、セミロングよりやや短めの頭髪を揺れさせている唯を、軽く頬をほころばせて真人が見ている。真横からの視線に気付いていぶかしげというか疑わしげなまなざしで見つめてくる唯を、
「おいこら。何見てんだよ」
「あ、ごめん。でもなんだか、今の唯がすごく可愛くって」
「ぶん殴るぞ馬鹿野郎」
雪は止む気配もなく、しんしんと街に降り積もる。二人が家に帰り、一晩眠って目を覚まして窓のカーテンを開いたならば、きっと一面の銀世界になっていることだろう。
師走の商店街を二人が歩いていると、黒服黒ネクタイにサングラスの男が二人、近くの店の自動ドアから出てきた。その姿を見て、近くを歩いていたねずみ色の背広のサラリーマンとベージュ色のロングコートを着た中年女性が微妙にそこから遠ざかった。唯が、視線だけを鋭くちらりとそっちに向ける。真人は、普通にそっちを向いた。
その黒服は、それぞれ何やら持っていた。
一人は、箱らしきものの入ったビニール袋を手に持ち、もう一人は紙袋を提げている。すれ違いざまに唯が見てみると、キラキラ光るピンクや銀色のモールだのモミの木の模型だのが入っているのが見えた。真人がショーウインドーに目をやると、ビニール袋の中の箱とちょうど同じくらいの大きさのクリスマスケーキが飾ってあった。
二人は、そこに停めてある真黒なベンツに乗り込んだ。色の濃いスモークガラスの張られたドアが閉められると、二人の姿は見えなくなった。ベンツは、「ブロロロロロ」と威圧的な音を立てながら走り去っていった。
「何かの冗談なのか。今のは」
唯が脱力気味な声を出した。
「クリスマスパーティーの準備じゃないの？」
真人が真面目に答えた。
そして、唯が微妙にげんなりとした顔をしているのを、きょとんとしながら見た。
「どうしたの？」
「いや、だからだな……ああまあいいや、別にもういい。ヤーサンもクリスマスぐらい祝うこともあるだろ」
「ヤクザだったの、今の人？」
「あそこまで全身全霊で自己主張されたらな……まあ実際、『そっち側』の匂いがしてたっつーのはあるんだけどな。覚えとけよ、法や平和の裏側で生きる人間にはな、ちゃんとそれなりの『匂い』があるもんなんだ」
「そうなんだ」
「まあ、だからってあんなにサービス精神満載な格好しなくたっていいとは思うがな……。つーか通行人ビビるぞあれは」
「あの人たちは、サンタさんから何をプレゼントにもらうのかな」
「…もらえねーと思うぜ、あたしは。つーか、悪い奴はおしおきをされるんだろ」
「そうなの？」
「良い子にはあの赤いサンタがプレゼントをくれるけど、悪い子は黒い衣装で黒い髭のサンタが来ておしおきをしていくそうだ。テレビでやってたぜ」
「僕、あんまりテレビって見ないんだよね」
「悪い子にはな、血まみれの動物の内蔵を枕元に置いてくそうだ。もっと悪い子だと、ぶん殴ったりどっかへ連れていったりするんだってよ」
「恐いね」
真人が不安げに身じろぎをした。
「おまえは確実に平気だろ。それだけいいやつなんだし。あたしはまあ、無理だろうけどな」
「そんなこと、ないよ」
「あたしもまあ中々最低な人生送ってきた自覚はしてるからな。他人に危害を加えたことだってあるし、物盗んだりしたことだってある。他にもまあ、色々とな。ま、その時はそうするしかなかったわけなんだが…あれだけのことをして、こうしてのうのうとおまえの横を歩いているんだからな。こりゃ、もう駄目だろ。おおかた誰か別の悪い奴のところに、連れてかれたあたしの内臓がプレゼントされることになるんじゃねーかな」
唯がそう話していたら、不意に真人が耳元で何か囁いた。間近で感じる体温に、思わず唯の動きが止まった。
「大丈夫。大丈夫だよ」
真人は囁く。
「君が連れていかれるなら、僕も一緒に行く。君が死ぬなら、僕も一緒に死ぬよ。それに、君は絶対に連れていかれたりしない。サンタさんが本当に神様のお使いなら、君のところに来るのは赤い服を着た白髭のサンタさんだよ。
僕は、君のすべてを知ってるわけじゃない。むしろ何も知らないと思うけど、それでも君は絶対に幸せになる権利があると思う。君はそうなるのが当たり前だ。だって―――だって君は、僕の側にいてくれているのだから」
雪の街で、少年は少女に囁く。少女は、泣きはしなかった。ただ少し、うつむいただけだった。
「ただの戯言だろがよ。そんなマジになるなよ。…ばーか」
真人は、優しく微笑んだ。
「だって僕は、君がいて本当に良かったと思っているから。これまでもそうだったし、これからもそうだと思うけど、今ここに君がいて、僕の隣を歩いていて、僕に話しかけてくれていること、それそのものが、僕にとっては、何よりのクリスマスプレゼントだから」
唯は、はぁ、とため息をついた。ひときわ白い霧が、冷たい街に流れていった。
「だからそういうことをやたらと言うなっつってんだろ。ったく。…ま、あたしもな、」
唯は言葉を切り、
「あたしみてーなのを恐れもしなければ嫌がりもしないで側においてるだけで、十分以上に過ぎたプレゼントだけどな。まったく、何でおまえってそう人がいいのかね。あたしはヤバい奴なんだぜ？」
そういって、呆れたような顔で真人を見る。
真人は、にっこりと笑い返す。
唯はまたため息をついた。
身を切るような冷たい空気の中だというのに、やけに頬が火照っていた。
「おまえってさ、どうしてあたしの側にいたがるんだ？」
「君がいると、他の人といるよりもっと気分がいいから」
「…変な奴」
そっぽを向いて呟く唯だが、その様子は、何かが零れ出すのを抑えているようにも見えた。
体温のこもった吐息を、真冬の空気が冷やす。二人の身体を、雪が白く装っていく。
降りやまない雪の中、二人がいつも使う駅が見えてきた。
白と水色の駅名のプレートや、赤や青のファーストフード店の看板が目立つその建物に向かって、真人と唯は足を急がせた。
fin.